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本土決戦




   目的は「国体の護持」

 昭和十七年末の頃から日本の敗色は濃くなり始める。日本海軍の艦隊はほぼ壊滅し、南の島々では日本軍の玉砕が相次ぐ。そして、二十年の四月に米軍が沖縄へ上陸し、六月には日本軍の敗北へとつづく。そして、いよいよ、米軍の日本本土への侵攻が時間の問題となってくる。しかも、その本土決戦でも日本に勝ち目はない。国の指導者たちは、日本がその破局にむかっていることを知りながら、しかし、国をあげて本土決戦準備に突きすすんでいったのである。
それはなぜだろうか。
 国の指導者たちの、戦争終結の絶対条件は「国体の護持(天皇の安泰と天皇制国家の継続)」であった。しかし、日本の敗北が決定的になっていたので、連合国がそんな条件を受け入れる可能性がなくなっていた。
そこで、軍部が主張する「本土決戦」論が大勢を占めるようになっていったのである。軍部の本土決戦論の大義名分もまた「国体の護持」であるのだが、その主張するところは戦争の最終段階で、日本本上に上陸してくるであろう米軍を、軍と国民の総力戦で迎え撃ち、米軍に大打撃を与える。そのことによって、米国の指導者や国民の中に、戦争の継続をためらう気分をつくりだせば『国体護持』の条件付講和に持ち込める可能性がでてくるーというのだった。しかし、八月に広島、長崎に原爆が役下され、日本の「ボッダム宣言」受諾h無条件降伏で戦争が終結した。本土決戦には至らなかったのではあるが・・・・
 読売新聞の「にっぽん人の記憶」という連載の、「敗戦」か「本土決戦」かという見出しの紙面(二000年八月一六日付)の中に次のような記述がある。
 ―八月九日夜から十目末明にかけ、宮中吹上御所の奥深くにある防空ごう内の大本営付属室で行われた御前会議で、天皇は明快に「本土決戦」を避け、ポツダム宣言を受諾する、との判断を示した,陸将、陸海軍両総長の三人が本土決戦を唱えて結論が出なかったところに下された「ご聖断」だった。
 十四日、再度開かれた御前会議で、二度目の「御聖断」が下り。ポツダム宣言受諾が決まる。原爆が投下されるまで、天皇は「ご聖断」を下されなかったのである。
 軍の最高幹部たちは、原爆が投下された後も「本土決戦」を主張しつづけたのである。当時の阿南陸軍大臣はこの直後に自決している。
  小説「日本本土決戦」の著者檜山良昭氏は、その本の表紙につぎのように書いている
 歴史には、その後の運命を決定づける転機がある。日本降伏の日 ー 昭和二十年八月十五日 ー は、そのような転機のひとつであった。広島と長崎への原爆投下は、大日本帝国の息の根をとめた。しかし、もし原爆が使用されなかったとしたらどうだったであろうか。

 この作品は、原爆開発が遅れたら、あの戦争はどうなったかという想定に基づいたフィクションである。だが誤解のないように書きそえるが、私は広島と長崎への原爆投下を決して肯定するものではない。私は原爆を憎む 「著者のことは」

   地下壕に立てこもっても決戦遂行

 昭和乍元年五月、長野の松代山中に地下壕を建設し、そこえ大本営などを移転する計画が立てられた。戦争の最高指導機関を地下壕に移し、そこへ立てこもって、最後まで戦争を遂行するためであった。米軍は、日本本土への上陸作戦を開始する前に、激しい空爆と艦砲射撃を加えてくることは間違いない。それによって、大本営や政府の機関が壊滅させられてしまったのでは戦争の遂行はできなくなる。
 そこで、長野県松代の幾つかの山の麓をくり抜いて地下壕をつくり、そこに大本営などを移して温存をはかろうというのである。もちろん大本営だけではない。最高統帥者である天皇の御座所(皇居)も移すし、政府の主要機関の地下壕建設もすすめられた。
 松代という地域が選ばれたのば、本土の幅広い部分の中央部に位置していること、山の岩盤が硬いこと、山と山が接近し合っていて空からの攻撃がしずらいことなどにあったといわれている。
 地下壕の建設は、象山 舞鶴山、皆神山の三つの山の地底を掘り披いてすすめられた。象山には政府機関や放送局を、舞鶴山には天皇の御座所と大本営を、皆神山は倉庫として計画された。総延長十三キロメートル、総面積四万三千平方メートルにおよぶ大地下壕群である。
 昭和十九年十一月に着工し「本土決戦」に間に合わせるために、数千億円(今の額に換算して)もの建設費を注ぎ込み、労務者も日本人だけでなく、強制連行してきた朝鮮人も従事させ、のべ三百万人もの労働力を投入して昼夜の別なく突貫工事ですすめられた。危険な工事には朝鮮人をあてたために、多くの朝鮮人が犠牲になったといわれている。建設工事は、昭和二十年八月の終戦時のときには、全工程の七五パーセントまで完成していたという。
 私か会員になっている茨城県平和委員会という市民団体が、一九九三年「松代大本営」見学ツアーを企画した。私もこのツアーに参加して、象山と舞鶴山の壕を見学することができた。象山の地下壕象山には、縦・横に碁盤の目のように坑道が掘られていて、坑道と坑道を繋ぐ主要坑道はトラックが通行できるという。

            碁盤の目のようにつくられた象山の地下壕

 その一部分五〇〇メートルは、一般に公開されているので、私たちは中に入って見ることができた。この地下壕には、政府の機関や放送局の移転が予定されていたのである

 舞鶴山の地下壕
 舞鶴山の麓にある天皇の「御座所」は窓の外から見ることができたが、そこと坑道で結ばれている地下の「御座所」には、そのとき工事中だったので入って見ることはできなかった。 大本営の地下壕は、いまぱ気象庁の「地農観測所」の施設になっていて、中に入ることはできず、外から見るだけだった。この中に、戦争の最高指導者たちが立てこもって〃日本最後の決戦″を遂行しようとしていたのである。私はこの松代行で、これほどの大規模な計画が、単に軍部の独断専行だけでできるはずはないだろう。ときの国の指導者たちが、本土決戦の準備をすすめることで、一致をしていたことは、間違いないと思った。

二百万決戦軍の招集・動員

昭和ニ十年一月十八日、戦争指導最高会議は、本土決戦の「戦争指導大綱」を決めた。これにもとずいて、つぎのように軍の招集・動員がすすめられた。
 ・二月二十八日 右岸配備十八個師団の動員発令。
 ・四月 二日 決戦用八個師団の動員発令。
 ・五月十二日 決戦用十五個師団、十五個旅所の動員発令
これは、二百万の兵力で本土決戦に臨むための動員計画である、

 大本営の参謀たちは、米軍の日本本土上陸・侵攻作戦を、つぎのように想定して、作戦計画と軍の配備をすすめていたのてある。h米軍は、まず、昭和二十年の秋には南九州への 上陸作戦をおこない、九州全土 を制圧して本土空爆の拠点を確保するてあろう。その上で、空爆と艦砲射撃によって日本全土の都市と軍事力を徹底して叩き、二十一年春には関東への上陸作戦をおこない、首都東京の制圧をめざすであろうという想定である。

 関東への米軍主力の上陸は相模湾、九十九里浜、鹿島灘のいずれか、あるいは複数地点になるだろうとも想定している。これにもとづいて、九州と関東に動員した軍の主勢力を配備したのである。関東甲信越には第十二方面軍が配備された、第十ニ方面軍の作戦計画によると。主戦場を関東地方と予定しヽ関東平野の中央部に決戦軍を集中し、三正面、鹿島灘、九十九里浜、相模湾のうち、敵主力に対して決戦を求めるー としている。

 すなわち、沿岸での攻防戦の後、侵攻してくる米軍主力に対しては、内陸部に決戦軍を配備しておいて、主力軍同士が対決するという作戦計画なのである。この作戦計画で、茨城にも大規模な軍の配備がすすめられたのだ。

米軍の日本上陸作戦計画

 戦後になって、米軍資料で、米軍の日本本土上陸作戦計画が明らかになった。それによると、紹和二十年八月十八日に、アメリカ政府の作戦担当者らによって、次のような計画が立てられていたという。

 ・二十年十一月 一七個師団六五万の兵力で南九州へ上陸(暗号名オリンピック作戦)

 ・二十一年三月 三十六個師団一五二万の兵力で関東へ上陸(暗号名コロネット作戦)

 米政府内でも、日本の戦争継続の息の根を止めるためには、日本本土決戦は避けられないという見方がつよくなっていたのである。この米軍の作戦計画は、日本の大本営が想定していたものとほぼ一致している。

 男子は、満十五歳になる年から六十歳になる年まで、女子は、同じく十七歳から四十歳になる年までは兵役が義務となる。男子だけでなく女子も戦力にするのだ。女子の竹槍訓練は、戦後に「B29に竹槍では……」と笑い話になったが、実はこの本土決戦に備えての戦闘訓練だったのである。つづいて「国民義勇戦闘隊統率令」という勅令が制定された。勅令というのは、国の統治者、軍の統帥者である天皇の命令である。「国民義勇兵役法」にしたがって職場、地域、学校に「国民義勇戦闘隊」の組織をつくれというのである。

 沖縄戦の教訓を本上決戦に生かすだけではなく、法律や命令で国民の戦争参加を義務づけたのだ。そして、その組織は「義勇隊」ではなく、軍とともに戦う「戦闘隊」なのである。

―しかし茨城県の場合国民義勇隊の編成作業は、昭和二十年四月十三日の閣議の方針決定の直後から実行に移された。四月十八日茨城会館に各団体七三名が集まり四月末日まで地域と職場に組織をつくることをめざした。「一度び敵本土上陸をみんか、の場合は直ちに武器をとり戦闘態勢に転移、皇国護持の大任を全うせん」が目的ということになる(「茨城新聞」昭和二十年五月十九日付)その組織を地域と織場(学徒隊も含む〕につくることにしたが、地域の場合は市町村に国民義勇隊、町内会・部落会にその単位小隊〔男子隊・女子隊)、郡に連合義勇隊を編成することにした。

 ひと言でいえば、国民のすべてを戦力として軍とともに戦わせることなのだ。

茨城では「義勇兵役法」の公布に先だって「国民義勇隊」の編成がすすめられていた。「水戸市史」の中につぎのような記述がある。

六月三日には、県知事を本部長とする「国民義勇隊茨城県本部」が発足している。しかし、戦争が終わるまでに、僅か二カ月しかなかったので、組織化は末端まですすまなかったようである。私も「義勇兵役法」が適用される年令に達していたのだが、なにも知らされずに終戦を迎えていたのだから・・・・・



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