この作品は、原爆開発が遅れたら、あの戦争はどうなったかという想定に基づいたフィクションである。だが誤解のないように書きそえるが、私は広島と長崎への原爆投下を決して肯定するものではない。私は原爆を憎む 「著者のことは」
地下壕に立てこもっても決戦遂行大本営の参謀たちは、米軍の日本本土上陸・侵攻作戦を、つぎのように想定して、作戦計画と軍の配備をすすめていたのてある。h米軍は、まず、昭和二十年の秋には南九州への 上陸作戦をおこない、九州全土 を制圧して本土空爆の拠点を確保するてあろう。その上で、空爆と艦砲射撃によって日本全土の都市と軍事力を徹底して叩き、二十一年春には関東への上陸作戦をおこない、首都東京の制圧をめざすであろうという想定である。
関東への米軍主力の上陸は相模湾、九十九里浜、鹿島灘のいずれか、あるいは複数地点になるだろうとも想定している。これにもとづいて、九州と関東に動員した軍の主勢力を配備したのである。関東甲信越には第十二方面軍が配備された、第十ニ方面軍の作戦計画によると。主戦場を関東地方と予定しヽ関東平野の中央部に決戦軍を集中し、三正面、鹿島灘、九十九里浜、相模湾のうち、敵主力に対して決戦を求めるー としている。すなわち、沿岸での攻防戦の後、侵攻してくる米軍主力に対しては、内陸部に決戦軍を配備しておいて、主力軍同士が対決するという作戦計画なのである。この作戦計画で、茨城にも大規模な軍の配備がすすめられたのだ。
米軍の日本上陸作戦計画戦後になって、米軍資料で、米軍の日本本土上陸作戦計画が明らかになった。それによると、紹和二十年八月十八日に、アメリカ政府の作戦担当者らによって、次のような計画が立てられていたという。
・二十年十一月 一七個師団六五万の兵力で南九州へ上陸(暗号名オリンピック作戦)
・二十一年三月 三十六個師団一五二万の兵力で関東へ上陸(暗号名コロネット作戦)
米政府内でも、日本の戦争継続の息の根を止めるためには、日本本土決戦は避けられないという見方がつよくなっていたのである。この米軍の作戦計画は、日本の大本営が想定していたものとほぼ一致している。
男子は、満十五歳になる年から六十歳になる年まで、女子は、同じく十七歳から四十歳になる年までは兵役が義務となる。男子だけでなく女子も戦力にするのだ。女子の竹槍訓練は、戦後に「B29に竹槍では……」と笑い話になったが、実はこの本土決戦に備えての戦闘訓練だったのである。つづいて「国民義勇戦闘隊統率令」という勅令が制定された。勅令というのは、国の統治者、軍の統帥者である天皇の命令である。「国民義勇兵役法」にしたがって職場、地域、学校に「国民義勇戦闘隊」の組織をつくれというのである。沖縄戦の教訓を本上決戦に生かすだけではなく、法律や命令で国民の戦争参加を義務づけたのだ。そして、その組織は「義勇隊」ではなく、軍とともに戦う「戦闘隊」なのである。
―しかし茨城県の場合国民義勇隊の編成作業は、昭和二十年四月十三日の閣議の方針決定の直後から実行に移された。四月十八日茨城会館に各団体七三名が集まり四月末日まで地域と職場に組織をつくることをめざした。「一度び敵本土上陸をみんか、の場合は直ちに武器をとり戦闘態勢に転移、皇国護持の大任を全うせん」が目的ということになる(「茨城新聞」昭和二十年五月十九日付)その組織を地域と織場(学徒隊も含む〕につくることにしたが、地域の場合は市町村に国民義勇隊、町内会・部落会にその単位小隊〔男子隊・女子隊)、郡に連合義勇隊を編成することにした。ひと言でいえば、国民のすべてを戦力として軍とともに戦わせることなのだ。
茨城では「義勇兵役法」の公布に先だって「国民義勇隊」の編成がすすめられていた。「水戸市史」の中につぎのような記述がある。
六月三日には、県知事を本部長とする「国民義勇隊茨城県本部」が発足している。しかし、戦争が終わるまでに、僅か二カ月しかなかったので、組織化は末端まですすまなかったようである。私も「義勇兵役法」が適用される年令に達していたのだが、なにも知らされずに終戦を迎えていたのだから・・・・・